2009年02月16日

沖縄を教育先進県にするために

沖縄と日本の未来を考える講演会

演題 『沖縄を教育先進県にするために』

講師 名城 政一郎氏
(沖縄尚学高等学校・付属中学校副理事長)


プロフィール なしろ まさいちろう 昭和33年沖縄県那覇市生まれ。同58年明治大学経営学部卒、同60年同大学大学院政治経済学研究科修了、尚学院副学院長、平成3年より学校法人尚学学園副理事長に就任。平成16年8月米ミネソタ州セント・ジョーンズ大学客員講師、同年9月セント・メアリーズ大学大学院博士課程入学(教育学専攻)、平成20年博士論文を提出。

【会 場】カルチャーリゾート フェストーネ(旧沖縄ハイツ) 地図
      宜野湾市真志喜3-28-1 電話 098(898)1212

【日 時】平成21年2月22日(日)
      午後1時30分受付開始 午後2時開演


【会 費】1,000円

Takashi
沖縄が全国学力テストで最下位になったのは「民族的」に劣っているのか?違います。北朝鮮を崇拝する自称平和主義者による「恨み」の教育に問題があるでしょう。

沖縄県は全国で一番クズな教師が働いている県ともいえます。  
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2009年02月13日

樺太の悲劇(3)

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 第3部 (2)

樺太の悲劇(3)
真岡の電話交換手9人の自決
碑文から消えた「軍命」

映画「氷雪の門」は、真岡郵便局の電話交換手九人が懸命に業務を行い、最後に青酸カリを飲んで自決するという実話を基に制作され、樺太最大の悲劇として知る人も多い。

稚内公園の「氷雪の門」のそばには、「皆さん これが最後です さようなら」と刻まれた「殉職九人の乙女の碑」が建立されている。氷雪の門と同じく昭和三十八(一九六三)年八月十五日に公開されたものだが、その碑文には、次のような説明が添えられた。

「昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向った ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼってキイをたゝき『皆さん さようなら さようなら これが最後です』の言葉を残し夢多き若い命を絶った 戦争は二度と繰りかえすまじ 平和の祈りをこめてこゝに九人の乙女の霊を慰む」(原文)

樺太ではソ連軍の無差別攻撃を受けて、小規模な集団自決があちこちで起きたが、いずれも本人の意志で決行されたものだ。

ところが、この九人の乙女に関して、碑文は「日本軍の厳命を受けた」「日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ」などと、「軍の自決命令」が死の原因であったと記している。

樺太で起きた集団自決が「軍命」絡みで関連付けられた唯一のケースであろう。

ところが、碑が公開されると、この記述を真っ向から否定する人が現れた。

当時、彼女たちの上司であった、真岡郵便局長の上田豊三氏である。

上田氏は、「北海タイムス」編集委員、金子俊男氏の取材に答えて「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかったから、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。

純粋な気持で最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人たちを冒涜するのもはなはだしい」(『樺太一九四五年夏』)と怒りを隠さない。

上田氏の残した手記によれば、昭和二十年八月十六日、豊原逓信(ていしん)局から女子職員の緊急疎開の指示が入り、上田氏は全員を集めてその旨を通知した。

ところが、担当主事から、「全員が応じない」との報告。

そこで、上田氏は直ちに女子職員を集めて、ソ連軍進駐で予想される事態を語り、説得した。だが、女子職員は「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかったという。

上田氏は回想する。

「私は感動した。しかし、その決意を肯定することはできない。ソ連軍進駐後はどのような危機が女子の上にふりかかってくるか、と思うと私は慄然となる」

そこで、上田氏は緊急疎開の方針を変えず、小笠原丸が真岡に入港したらそれに乗船させる決意を固める。だが、同船入港前にソ連軍が上陸してしまう―。

その上で、氏はこう綴(つづ)る。

「あらゆる階層の人たちがあわてふためき、泣き叫び、逃げまどっていたなかで、郵便局の交換室、ただ一ヵ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。

このようなことが他人の命令でできることかどうか。

その一点を考えてもわかることだ。崇高な使命以外にない」

やがて、碑文から「軍命」が消えた。新たに次のようになった。

「戦いは終わつた。それから五日昭和二十年八月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始つた。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向つた九人の乙女等は死を以つて己の職場を守つた

窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい『皆さんこれが最後です さようなら さようなら』の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた 戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の霊を慰む」(原文)

碑文が取り換えられた日付は分からない。昭和四十三(一九六八)年九月初め、昭和天皇と香淳皇后が北海道百周年記念祝典にご臨席のため、北海道をご訪問。祝典の後の九月五日、稚内をお訪ねになった。浜森辰雄・稚内市長(当時)から「九人の乙女の碑」の説明を受けられた両陛下は目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされたという。その時のお気持ちを後にお歌に託されている。

昭和天皇の御製

樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる

香淳皇后のお歌

樺太に つゆと消えたる乙女らの みたまやすかれと ただいのりぬる


●Takashi
米軍の艦砲射撃で追い詰められたと考えるのが自然ですが、恨みの塊のような共産主義者は日本軍が追いつめたと考えるようです。

  
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2009年01月15日

樺太の悲劇(2)

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 第3部 (2)

樺太の悲劇(2)
相次ぐ家族の自決、心中
遺族が自問「愛の極致とは」

樺太の悲劇を書いた著作の中でも、圧巻は映画「氷雪の門」の原作といわれる、金子俊男氏の『樺太一九四五年夏』(講談社、昭和四十七年)である。

樺太・豊原市生まれの金子氏は、「北海タイムス」社会部長、編集委員などを務め、同紙に「樺太終戦ものがたり」を一年にわたり連載。この原稿が作家、吉村昭氏の目に留まり、単行本となった。

八月九日朝のソ連対日参戦から、二十二日の停戦交渉前後までの約二週間の、樺太でのソ連と日本(軍だけではなく義勇隊・民間人)との戦闘の状況を克明に描いたものだが、四百人を超える関係者の手記とインタビューを合わせて、極めて密度の濃い戦場記に仕上げられている。

ソ連軍を目前にして、家族同士の心中や自決が相次いだ。真岡中学の体育教師、平野太さんは、妻の真砂子さん(当時43歳)と四男、剛男君(同9歳)が、隣家の江村孝三郎少尉(同55歳)一家五人と共に自決したことを知らされる。

収録されている平野さんの手記を紹介する。

周囲の人の話では、江村少尉は家族四人と、平野さんの妻子に目隠しをさせて、首をはねた後、最後に自ら仏壇に面して切腹したという。知人の校長らは、その自刃を、口を極めて褒めた。

平野さんは、綴(つづ)る。

〈私としては、相手がソ連兵でなくてよかった、日本軍人、しかも長い間の友人によって、その一家と死を共にしたのだから、何もいうことはないと思った。

ただ、なんとかして船で引き揚げさせようと思って、叱って区長のところへやったことがこうなったと思うと、悪いことをした、私が軽率であったとくやまれてならなかった〉


死後、一カ月以上が過ぎて、道路脇に埋められていた遺体を掘り出した時の平野さんは、江村少尉の行動を尊敬する一方で複雑な心境でもあったと告白する。

〈思考、意志という点でおとなの江村少尉と妻たちは、ある覚悟があって切られ、自決したのであろうが、子供たち五人は目隠しをされ、おそらくは合掌し、お題目をとなえながら首をはねられたのであろう。

そのときの気持ちを思いやれば、私には名状すべからざる悲惨な悲しみがわいてくる。

悲しかったであろう子供たちの気持ちを想像するたびに、思い起すたびに、じっとしていられないような気持ちになり、夜も眠りつけないことが、いまなおしばしばある。

しかし、私よりももっともっと不幸な人びともあったであろうからと、忘れる努力をする以外にはない〉


平野さんの手記は、江村さんの隣の官舎にいた同中学の軍事教練の助教官や柔道の教官、英語の鴨志田義平教諭の一家六人の自決などにも触れられている。鴨志田教諭は、外国語学校の出身で、かつて樺太国境警備の巡査だったが、敷香中学開校のときに英語教諭として迎えられ、後に真岡中学に移ったという。

平野さんは、江村少尉の自決と、この英語教諭の自決を比較して、こう述べる。

〈江村少尉の自刃を軍人のかがみとしてほめるのは当然であるが、英語教諭一家の自決については、周囲の人びとのほとんどが、あまり語らなかった。

なぜだろう。

私は一抹の寂しさをそのことに感じたものである。

両家とも、子供たちを思う愛情が死に結びついたものであろう。

そうであれば文官であった鴨志田先生の精神をももっと称揚してよいのではなかろうか。

ただ、なんとか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったかと当時思ったこともあったが、これは私のごとき凡人の考えであるかもしれない〉


万に一つでも、愛する妻子の体に敵のソ連兵の指一本も触れさせないようにするためには、自決しかない。

死をもって家族を守ろうとした江村氏や鴨志田教諭の決断と行動を、「愛の極致」と称賛する気持ちに偽りはない。

だが、その半面、平野さんは自問する。何とか生き残って将来の道を打開することも人間としての愛の極致ではなかったか、と。

誰も、この問いに答えることはできない。

平野さん自身も。

ただ、明白なのは、平野さんの手記に、自決に関して軍の強制があったとか、日本軍への恨み言などが一行も書かれていないということだ。

Takashi
「命令」で我が子を殺せる人が居ると思いますか?恨みの塊の共産主義者の言う事を信用しないでくださいね。
  
Posted by ●Takashi ちゃん 08:00Comments(2)TrackBack(0)沖縄問題

2009年01月01日

樺太の悲劇(1)

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 第3部 (1)

樺太の悲劇(1)
ソ連参戦で阿鼻叫喚の住民
捨て身で娘たちを守る老女も

札幌駅から特急に乗り換えて五時間半、稚内を訪ねたのは四月の下旬だった。ミズバショウの群生が遅い春の到来を告げていた。だが、“風の町”稚内を歩くとまだまだ肌寒かった。

先の大戦で、国内で住民の集団自決が起きたのは、慶良間諸島のほかに樺太でも起きている。戦時中の集団自決の実相に迫るべく、この地を訪ねたのであった。

両者は、いろいろと対照的である。地理的には、慶良間諸島と樺太は、日本の両端に位置する。

米軍が本島に上陸した昭和二十(一九四五)年四月一日から沖縄戦は本格化するが、それ以前に、慶良間諸島の集団自決は起きた。

戦争は日本がポツダム宣言を受け入れ、八月十五日で敗戦となるが、樺太の住民にとっての「戦争」は、その前後から始まった。

ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻したためだ。

樺太の地は、アイヌなどの先住民族と日本人とロシア人が雑居する形で明治維新を迎えた。明治三十八(一九〇五)年のポーツマス会議で、北緯五〇度までが日本領となり、二年後にはコルサコフに樺太庁が発足。鉄道、道路、港などのインフラが整備され、漁業、林業、石油、石炭開発などで活況を呈した北の大地に、多くの日本人が移り住み、終戦時は約四十五、六万人までに膨れ上がっていた。

そこにソ連軍が空、陸、海から一気に侵攻。

住民は一瞬にして大混乱に陥ったのである。

各地でわれ先に港に向かい、避難しようとする人々の群れ。

そこに容赦なく、ソ連軍が攻撃した。

樺太の北部、恵須取―内路間にある百六キロに及ぶ内恵道路にも、避難民は太い川のようになって南下したのだが―。

(この避難民の流れをソ連機がしばしば襲った。

多くは婦女子の列と知っての威かくとみられたが、逃げまどう人の群れに無差別な機銃掃射や爆撃が加えられたこともあり死傷者がでた。

悲惨なのは機銃弾で死んだ母親の死体にすがって泣く幼児。

子供を失って発狂する母親。

若い人たちについて歩けないと自ら離れていき死を待つ老人。

取り残されるかもしれない不安から足手まといの幼な子を断崖からつき落としたり、死が待つばかりの草むらにえい児を捨て、わずかなミルクを残していく母親などもいた。

そして絶望的な逃避に疲れ、劇薬をあおり、手榴弾を胸に抱いて一家が自決する惨劇も相次いだ)(樺太終戦史刊行会編纂『樺太終戦史』より)

日本軍は戦闘を避けようと、真岡市街でも住民の中にかなりの死傷者が出ていることを知りつつも、交戦を禁じ、停戦のための軍使派遣を命じた。

八月二十日朝、ソ連軍の先兵が豊真山道入り口付近にいるのを確認、白旗を掲げた上等兵を先頭にして村田徳兵中尉が軍使となり、護衛兵とともに交渉に向かった。だが、ソ連兵は日本兵の武装を解かせ、軍犬を電柱に縛り付けるよう要求。その上でいきなり銃口を日本兵に向けて乱射したのだった。白旗を掲げた豊原市の駅前に殺到した避難民にも、ソ連軍は銃弾を浴びせた……。

こうして、わずか二週間で住民・兵士ら約四千三百人が亡くなった。

この間に、七万八千人が内地に引き揚げることができた。だが、樺太に残された人は殺されるか、占領下で強制労働をさせられるか、遠くシベリアに抑留され、二度と日本の地を踏めなかった人々も数多い。

幸い命が助かった人も、それまで汗水流して築き上げた土地財産の一切をソ連に奪われてしまったのである。

ある会社員は、妹を陵辱しようとするソ連兵を制止しようとして銃殺された。

婦女子らが仮泊していた真岡町の小学校に、ソ連兵数人が押し掛けて「マダムダワイ(女を出せ)、マダムダワイ」と叫んで、女性を連行しようとした。その時、七十歳くらいの老女が立ち上がり、「私が行ってやる。ほかの者には手を触れるな」と兵士を外に追い出した。老女は輪姦(りんかん)され、翌日、死体となって発見された。

入院していた重病者看護のために最後まで大平神社の防空壕(ごう)に踏みとどまっていた看護婦二十三人の近くにも、ソ連兵が迫った。八月十六日のことだ。避難する内恵道路にも既にソ連兵が立ちはだかっていることを確認した高橋ふみ子婦長は、「この若い看護婦たちを無事な姿で親元に帰せないならば、死を選ぶことよりほかにない」と覚悟。用意していた青酸カリを注射または飲み干した。致死量に足りず十七人が蘇生(そせい)したが、六人は死んでいった。

Takashi
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
沖縄県民斯ク戦ヘリ(てぃーだ)は、去年の7月26日にはじめましたが、ネタ不足と仕事の都合でコメントや更新が遅れていますが、てぃーだブログは続けて行きますので、応援よろしくお願いします!

沖縄戦は「国内唯一の地上戦」などという、自称平和主義者のプロパガンダに騙されていませんか?地上戦は沖縄だけではありませんよ。
  
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2008年12月23日

日本解放第二期工作要綱

第19118号 國民新聞 平成18年10月25日

「日本解放第二期工作要綱」

中国はアジアにおける覇者を目指している。その行く手を阻む勢力として、日本、台湾を挙げ、その政治的行動を妨害しようと全力を傾けている。我国首相の靖国神社参拝に始まり、教科書・歴史認識問題等を巡って、執拗に内政干渉に努める。更に、反日青年をそそのかして、反日暴動や尖閣諸島上陸を試みる。只、国民の不満が中南海(政府)に向かう懸念が生じると、その活動にブレーキを掛ける。我国政府がいつ迄も謝罪し続けることをいいことに、中国政府は居丈高に日本の政治に容喙し属国視する。

中国政府は表向き、日中友好を口にするが、本書は「日本が現存保有する国力のすべてを中共の支配下におき、中共の世界解放戦に奉仕せしめる」(日本解放第二期工作要綱)ことにある。

ここに掲載する「日本解放第二期工作要綱」には中国政府が工作員に対日謀略を指令する実態が赤裸々に記されている。中央学院大学の西内雅教授(故人)が昭和四十七年七月に香港、台湾等を視察した際、中国共産党の秘密指令書「日本解放第二期工作要綱」の原文(華字)を偶然入手した。帰国後、翻訳し、本紙同年八月号に発表、更に『中共が工作員に指示した日本解放の秘密指令』と題した新書判小冊子を発行した。当時、その内容の衝撃に、増刷は十版を重ねた。

只、指令書の発見から三十四年経った今日、中国の政治的野心は同文書の目論見通りに推移し、目指す長期対日謀略は間断なく続いていることが良く分かる。この事態について、警鐘を打つ為に、「月刊日本」(南丘喜八郎編集発行、平成十三年九月号)や『国連の正体と日本再建の指針』 (矢崎好夫著、平成十六年図書刊行会刊)にも指令書の全文が収録された。更に、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が「週刊ダイヤモンド」十月十四日号で同小冊子を詳しく紹介した上、中国の戦略に対して注意を呼び掛けている。この度、本紙では三たび掲載に踏み切った由である。
  
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Posted by ●Takashi ちゃん 07:00Comments(3)TrackBack(0)中国問題