日本軍は命がけで沖縄県民を守った!

●Takashi

2008年08月27日 05:55

【史】平成20年1月1日発行 第66号(年6回奇数月1回1日発行)

新しい歴史教科書をつくる会

日本軍は命がけで沖縄県民を守った!

「集団自決」教科書検定問題の背景

フリージャーナリスト 恵 隆之介


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●在沖縄米軍による反日・侮日教育

皆様、こんばんは! 先ほどは沖縄戦で戦死された英霊に対し黙祷を捧げてくださいましてありがとうございました。

私の伯母は、ひめゆり部隊で戦死いたしました。戦死公報を見ますと「昭和20年6月、沖縄本島島尻付近において戦死」ということだけで、最期の場所は未だに分かっておりません。一方母は疎開する途中、例の「対馬丸」に乗っており、九死に一生を得ました。

しかし、私は国家を決して恨んでおりません。

私は少年時代、沖縄で学校教育を受けました。

沖縄を統治していた米軍政府の中に米陸軍第八心理作戦部隊というのがあり、とんでもない教育をしておりました。

どういった教育かと言いますと、反日・侮日教育です。

小学校時代に教わった内容には二つの柱がありました。

一つは、戦前、沖縄県民は差別されていた。

その帰結が沖縄戦における惨劇であるというものです。

もう一つは、日本軍は沖縄住民を保護するという視点がなかったというものでした。

そういうことを教室や地元マスメディアから絶えず言われていました。

一方、私は物心ついた時には、もう母に連れられて亡き伯母の供養のために沖縄本島の南部地域を何箇所か定期的に回っておりましたから、非常に複雑な思いで少年時代を過ごしました。

●日本軍は県民保護につとめた

ところが私は、中学から九州の学校に遊学し、そして防衛大学校に進んで行くうちに、隠されていた史実を発見しました。

帝国陸軍も、旧内務省も、沖縄県民の保護のために、ありとあらゆることをいたしました。それをこれからご紹介します。

その前に、平成9年頃、橋本元総理が沖縄問題がこじれた時にかなりの補助金をばらまきまして、「対馬丸記念館」というのを那覇市内に建設いたしました。

そこに行きますと、ああ何と沖縄県民は悲劇を強いられたか、と思えるわけでありますが、これから申し上げる数字はそれを吹き飛ばすようなものであります。

内務省は昭和19年7月7日に、沖縄県に対して疎開勧告を出しました。

これは、非戦闘員、即ち女子及び60歳以上16歳未満の老幼男女約10万人を、県外と沖縄本島の北部の山岳地帯に疎開させるという計画でした。

その結果、10万人を遥かに上回る16万人が疎開し、命が救われました。

それに要した船舶はのべ187隻。

撃沈された船舶は「対馬丸」以下6隻、犠牲者は約3000人見当です。

ところが、地元メディアや教職員会は疎開の話を「対馬丸」沈没による学童738人の遭難にのみ集約するのです。

従って、沖縄へ修学旅行に来る青少年はこの記念館を見学すると、

「日本は沖縄に何と多くの犠牲を強いたのだろう、しかも学童にまで」と解釈し、同情するわけです。

しかし、米軍上陸までに国は必死になって県民の疎開活動を実施しました。

●戦闘艦に乗せて住民を助ける

次に、米軍上陸前後の住民保護について申し上げます。

私がお話ししているのは全部証言や公刊資料に基づいております。

疎開は昭和19年の8月から開始され、昭和20年の3月上旬で打ち切られたのですが、それからがまた大変でした。

帝国海軍は、内規として戦闘艦に一般住民は乗せてはいけないことになっていました。

ところが、沖縄戦が始まるギリギリまで、海軍の艦艇が港に横付けして、一般の婦女子を乗せて高速で九州に向かったという史実があります。

これは救助された人達が証言しています。

一つ紹介します。私が懇意にしております真喜志(まきし)文子さんという79歳の老婆がおられます。

この方の話を聞きますと、父母を疎開させるために那覇港に見送りに来たら、水兵がたくさん艦から降りて来て、

「艦長命令です! 全員乗ってください。まもなく米軍は上陸します」

ということで、そこにいた人力車の車夫から労働者まで、片っ端から三隻の艦艇に乗せられたそうです。

そして、那覇港を出ると高速で「『の』の字運動」を繰り返しながら熊本の三角港に入り、その結果、この一家は全員助かりました。

このように帝国陸海軍は、米軍が上陸する沖縄戦の直前まで、住民の疎開に死力を尽くしていたのです。

そして、米軍が上陸して来た。

米軍は本島中部に上陸して南下し、帝国陸軍も本島南部で決戦をするつもりでした。沖縄本島が分断されたので、もう本島北部山岳地帯への疎開も不可能になりました。

この時どうしたか。

沖縄の新聞や朝日新開は、軍は住民を保護しなかったと言いますが、救助された老婆が証言しています。

どういうことかと言いますと、沖縄県の首里・那覇は人口密集地でした。

本来なら警察が避難誘導すべぎなのですが、警察官は逃げていないものですから、憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導したんです。

そのことを富名腰(ふなこし)ツルさんというお婆ちゃんが今から10年前に証言しています。

「自分の家で死ぬのが本望です」と言ったら憲兵に叱責されたと言うんです。


「死に急ぐな!生きることを考えなさい」

と言って説論され避難壕に誘導された。

その憲兵は避難住民に兵糧まで配給し、「勝利の日にまた会いましょう」と言って敬礼をして、そしてまた戦場に戻って行って戦死されたそうです。

私は以上の史実を、本来なら教科書に載せるべきだと思います。

「沖縄人は差別された」

というくだらんことを言う者がおりますが、疎開して九州に行った沖縄の子供たちはどうしていたかと言いますと、皇后陛下からビスケットとか饅頭を下賜され、わざわざ皇后陛下が詠まれたお歌までいただいていたのです。


つづく・・・。

Takashi
すこし長いので、2回に分けて掲載します。

このような証言は、沖縄のメディアは絶対にとりあげません。なぜかって?
沖縄のメディアは本土の方を「憎む」県民を作るのが目的ですから、真実は報道しません。

戦争を体験した事も無い、被害にあったわけでもない県民が、被害者面で本土の加害者でもない人たちを批判・・・・このような県民を見てどう思いますか?

沖縄戦集団自決の強制否定証言


1974年英国で制作された秘録第二次世界大戦の第22話、一億玉砕・日本銃後の記録 から沖縄戦の集団自決に関する証言部分を抜粋。


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