日の丸を”裏切った「教職員組合」
「復帰30年沖縄新時代宣言―沖縄問題のタブーを解く」
日の丸を”裏切った「教職員組合」
●Takashi
復帰以前の沖縄を知らない世代には少し驚きの内容です。
2、◆日の丸掲揚を強力に推進
「最近の校長先生はうらやましいですよ。卒業式で日の丸を堂々と正面に掲げられるのだから」
一九八〇年代、沖縄県内の公立中学校で八年間校長を務めた當眞哲雄さん(73)は言う。
(省略)
戦後、沖縄では激しい政治闘争が繰り返されたが、その中で日の丸は常に"揺れ"続けてきた。
一九四五年四月、戦争がまだ終結していない段階で、米軍は沖縄で占領政策を開始。
米軍は日の丸掲揚、君が代斉唱を禁じ、破った者には禁固や罰金を科すと発表した。
サンフランシスコ平和条約が発効した一九五二年四月二十八日、沖縄を統治していた米国民政府(USCAR)は、私的な場所に限って日の丸掲揚を認めた。
しかし、役所や学校など公共の場での掲揚は禁じられた。
そんな中、日の丸掲揚運動を強力に推進したのは、実は沖縄教職員会だった。
(省略)
一九五三年になると、新年の三日間、一般家庭に限って国旗掲揚が許可された。この時、教職員会は各学校の校長らに、
①各戸に国旗掲揚を奨励する
②国旗購入が間に合わない児童生徒は学校で紙の旗を製作して掲揚するよう指導する
---などを通達し、日の丸掲揚を徹底させたほどだ(同書)。
同年四月二十九日の天皇誕生日には、一般家庭だけでなく、学校での掲揚も認められ、この時の様子を『琉球新報』は次のように報じている。
「那覇市久茂地小学校では急ごしらえの掲揚台にワツと押しかけた生徒たちに囲まれ、校長先生が双眼を輝かせつつこんペきの空高く日の丸を掲げていた。
傍らで若い女教師がそつと目にハンカチを当てる…。
永年育まれた『民族的感激』の一瞬なのだ」
この時代、日の丸は入手困難だったため、教職員が本土から一括購入し、各家庭に販売した。
当時、教職員会会長だった屋良朝苗・元県知事の著書によれば、
「平均して、毎年一方本ぐらいの希望があった」
(『沖縄教職員会16年』)という。
教職員たちは入学式や運動会で国旗を掲揚しょうと涙ぐましい努力をしている。
万国旗の中に一番日立つように大きな日の丸を掲げ、警察や米軍が注意すると、
「装飾の一部だ」とごまかした。
このため、
「日教組は沖縄の教師を見習え」
とまで言われたという。
国旗掲揚運動は教職員会だけでなく、労働組合、PTA、市町村会など、保守・革新を超えて全県的な取り組みとなり、日の丸は復帰運動のシンボルとなっていった。
池田勇人首相(当時)とケネディ米大統領(当時)の首脳会談を受け、民政府は一九六一年六月、公共施設における祝祭日の国旗掲揚を容認。そして六九年十二月には国旗掲揚の完全自由化を発表。県民の悲願はついに達成された。
だが、日の丸掲揚にあれほど熱心だった教職員たちは、本土復帰を勝ち取ると、
「反日の丸」に豹変する。
小学校六・九%、中学校六・六%、高校ゼロ%__これは文部省が発表した」一九八四年度の沖縄の公立学校卒業式における国旗掲揚実施率である。数値は全国最下位。国歌斉唱にいたっては、一校も実施されなかった。
復帰前、教職員は「日の丸は民族のシンボル」と訴え、率先して掲揚運動を展開していたにもかかわらず、なぜこのような状況になってしまったのか。
原因は日教組との関係にある。
沖縄独自の組織だった沖縄教職員会は、復帰を翌年に控えた一九七一年、沖縄県教職員組合(沖教組)に改組。
復帰後の七四年四月に日教組の傘下に入り、「反日の丸」にスタンスを転換した。
福地曠昭・元沖教組委員長は当時の方針転換について、『琉球新報』一九九九年七月一日付で次のように証言している。
「六〇年代から日教組の教研集会で、
日の丸掲揚をやめるよう幹部から求められていた。
六八年ごろ、
『いつまで日の丸にこだわるのか。そういう時代じゃない』
として、教職員会の青年部大会が日の丸一括購入事業の中止を決定し、学校現場でも日の丸が撤去された。
日の丸掲揚運動とは鮮やかに矛盾するし県民にも分かりにくかったと思う」
(省略)
海邦国体の沖縄開催が決まると、県は国旗掲揚の雰囲気づくりのために、一九八五年から学校行事での国旗、国歌の徹底を始めた。
組合側はこれを「教育への不当な政治介入」として猛反発し、「日の丸・君が代を一校も許さない」との方針を打ち出す。このため、卒業式は反日の丸闘争の ″戦場"と化した。
県立高校の卒業式が一斉に行われた一九八六年三月一日。
沖縄本島北部の本部高校では開式直後、生徒が日の丸問題を議論することを提案し、卒業式は一転して討論会に変わってしまった。
日の丸撤去要求を学校側が拒否すると、生徒たちは式をボイコット。
生徒は運動場で勝手に卒業式を行う一方、校長は誰もいない式場で卒業証書を読み上げるという異例の事態になった(『沖縄タイムス』一九八六年三月一、二日付)。
当時、當眞さんが校長をしていた中学でも、「教職員の反対で卒業式会場に掲げることができず、式が始まる前に教頭と二人で運動場に掲げた」という。
翌一九八七年も卒業式は荒れ、読谷高校では女子生徒が日の丸を持ち去り、投げ捨てるという衝撃的な事件が発生。
そして同年秋、海邦国体のソフトボール会場で知花昌一氏(現読谷村議)が、日の丸を引きずり降ろし、焼き捨てた。
●Takashi
反日も「本土のせい」とは思っていませんけど、本土の極左の力があることも知っていただきたい。
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